日本の文化を多少わかりやすくしてみたい勇気のブログ

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『北斎とジャポニスム〜HOKUSAIが西洋に与えた衝撃〜』報告レポート@上野-国立西洋美術館

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上野の国立西洋美術館で開催している『北斎ジャポニスム』を観てきました。

hokusai-japonisme.jp

こちら、全編に渡って撮影禁止なので表の写真以外ないのですけれど、かなーり刺激的で感激したので、ブログに記してみます。

 

 

展覧会の概要

このHPから引用させていただきますね。

 

HPによると、見所はこちら。

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それをスクロールしていくとわかるのですが、要するに北斎の影響を受けた世界的な画家がとても多いということなのです。

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では、これらの内容について、何が素晴らしく刺激的だったのか、それを記してみます。

 

そもそも北斎って?

では、そもそも北斎とは誰なのか。もちろん日本史の勉強をすれば確実に登場する御方ではありますが、富嶽三十六景や妖怪のような浮世絵が有名でもそれ以外はあまり知らない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ということで、まずは北斎その人について。

 

上記のHPには簡潔にこのように記されています。

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ですが、これだと少しわかりにくいので、別のものを。

こちら、『すみだ北斎美術館』のHPですが、こちらには北斎の生涯が記されています。

http://hokusai-museum.jp/modules/Page/pages/view/402

 

これを見て驚いたのですが、北斎の有名な絵は全て晩年の作品でした。また、90歳まで生きているということが、この時代だととても珍しいですよね。

この生涯は7つの段階に分けられるらしく、主たる作品と共にその時期のことを簡潔に記してみます。

 

■宝暦10年(1760年)から安永6年(1777年)まで:1歳から18歳まで

6歳から絵を描くことに興味を持ち、貸本屋や版木彫りの仕事を経て、世絵師勝川春章への弟子入りを決意します。

 

■安永7年(1778年)から寛政6年(1794年)まで:19歳から35歳まで

勝川春章に入門し、勝川春朗の雅号で浮世絵の世界に登場し、35歳に勝川派を離脱するまで、勝川派の絵師として、様式に倣った役者絵や挿絵などを描いていたそうですが、子供絵、おもちゃ絵、武者絵、名所絵、角力(すもう)絵、宗教画など幅広い題材の作品も発表したとのこと。

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新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図

 

■寛政6年(1794年)から文化元年(1804年)まで:35歳から45歳まで

勝川派を去った北斎は、新しく宗理の雅号を用い、それまでの他の派とも異なる独自の様式を完成させ、たくさんの摺物や狂歌絵本の挿絵を描いています。

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巳待 摺物 13.5×19.0 寛政9年(1797年)


■文化元年(1804年)から文化8年(1811年)まで:45歳から52歳まで

この時期になると読本挿絵の制作を精力的に行ったそうです。読本挿絵には、基本的に墨色のみでわずかに薄墨が使われることがあるそうなのですが、彼は墨の濃淡を利用した奥行のある空間表現、奇抜な構図などで読本挿絵の芸術性を飛躍的に高めたそう。この頃、ようやく「葛飾北斎」の雅号を使い始めたようです。

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近世怪談 霜夜星


■文化9年(1812年)から文政12年(1829年)まで:53歳から70歳まで

この時期には門人が増え、北斎の絵を学ぶ人は全国にいたため、北斎は絵手本の制作に情熱を注いだそう。現在、「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に有名な『北斎漫画』の制作もこの時期に始められたらしいです。『北斎ジャポニズム展』でも多く展示されていましたが、北斎の絵手本は、眺めるだけでも楽しく、工芸品の図案集としても使われたとのことです。

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北斎漫画』初編

 

■天保元年(1830年)から天保4年(1833年)まで:71歳から74歳まで

この時期には「冨嶽三十六景」などの風景版画や花鳥画など、現在も有名な錦絵の名作が多数生み出されたそうです。西洋画には「風景画」というジャンルが確立されていますが、浮世絵にはもともと「風景画」と称されているジャンルはなく、「冨嶽三十六景」の大流行により、浮世絵に「風景画」が確立されたそう。

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冨嶽三十六景 凱風快晴

 

■天保5年(1834年)から嘉永2年(1849年)まで:75歳から90歳まで

富嶽百景』の中で北斎は、百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描けるだろうと記したそうです。この時期の北斎は、題材を風俗画から和漢の故事に則した作品や宗教画等へと大きく変化させつつ、絵を描く人々のために作画技法や絵の具の調合法を記した絵手本等も刊行していました。そんな中、嘉永2年(1849年)春、病で90年の生涯を終えました。

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百人一首乳母かゑとき 猿丸太夫


展覧会の目玉は、『北斎ジャポニスムを創り上げた』その裏側

上記のような生涯を送った北斎ですが、この展覧会にて言われているのは、『北斎ジャポニズムを創り上げた』というその裏に隠された数多の功績の数々。

行くと分かるのですが、北斎の影響を受けた海外の画家や作家たちがあまりにも多いこと。

その理由をこちらでは5段階に分けて説明していました。(こちら全て記憶なので若干異なっていたらすみません)

 

1. 人物

西洋画の中で、人物画を描いたとしても基本的には肖像画のようにポーズをとったようなものしかなかったようなのです。つまり、かなり作り込んだような人物を、ですね。でも、北斎は人の体の動きや筋肉の付き方などを専門家から学んだりしかなり研究した上で、それまで描かれることのなかった市井の民、特に若い女性たちの自然な姿を描いた。。これは、西洋画ではそれまで概念としてなかったよう。

 

2. 動物

西洋画ではそれまでは風景や人が主体になることはあれど、動物が主体になることなんてなかったよう。それを動物を主体にする北斎は、当時の西洋画家たちからするとありえなかったようです。

 

3. 植物

西洋画では基本的に歴史画・人物画・風景画・風俗画・静物画というような絵画のジャンルに順番(位、とでもいうのでしょうか)があって静物画は一番低俗とされていたのに、静物画としてある意味底辺とされていた植物をありのままに捉えていた。

それまでの西洋画は「死を想え(メメント・モリ)」というようにその生命の死をも表現してしまうものとして捉えられていたのにも関わらず、北斎のそのいきいきと空を見上げるような植物があまりに衝撃的だったとのこと。

 

4. 風景画

それまでの西洋での風景画は、神が与えたもうたそのままの姿を描くことが常識だったそうです。ただ、それはかなり画一的な画面しか生まず、遠近法ばかりを駆使して独自性を発揮することのできなかったよう。そんなところに北斎が登場するわけです。北斎は遠近法ではなく、人が目を通して見えるそのままを描く技法を創出し、かつそれまで全て美しい構成で対象物を全て画面内に入れることが常識だったところを打破します。

 

5. 波と富士

北斎の波の細やかさは有名ですね。それまでの絵画ではあれだけ細やかな波はありえませんでした。その波の細かさたるや、「北斎の絵では、1つの波が海全ての本質を表す」とその時のとある高明な画家がひたすらに叫んだのは、今日とても分かりにくいところに記してありました。(お名前は忘れました)

また、「富嶽三十六景」のように同じものを異なる場所から描き続ける「連作」という概念を作ったのも北斎だそうです。

 

だがそこで、疑問も浮かんでくる

そんなように『ジャポニスム』を創出した北斎上記の生涯と影響を見ると華々しくその絵画の世界に君臨していますが、今日この『北斎ジャポニスム』を観て、以下のような疑問を持ちました。

・なぜそのように独特な感性にて表現することができたのか?

・日本の他の画家たちは同じことをしていなかったの?琳派は有名だけど、どうなんだろう?

・日米修好条約と同時に開国したわけですが、北斎以外の画家の作品はどう海外に広がり、どんな影響を与えたの?

北斎はなぜ人の研究をしたり、波の研究をしたり、他の画家が見向きもしなかったものを捉えることができたの?

・そもそも、北斎自身の思想ってなに?

北斎はどんな感情を持ってその作品たちを作っていたのか?

・なぜ幕末〜明治にかけてこのような画家が誕生したのか?然るべくして生まれた?それともそんな画家を日本と世界が必要としていたの?

。。。etc.

 

ということで、これらの疑問に対しての答えは今後探して参りますゆえ、また後日。